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# 民法第90条(公序良俗)——社会倫理と法律行為の効力
**作者:吉祥法师**
## 一、条文とその意義
民法第90条は、以下のように規定している。
> 「公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする。」
この条文は、私的自治の原則——すなわち個人が自由に契約を結び、その内容を決定できるという原則——に対して、社会全体の倫理や秩序という観点から一定の制限を加えるものである。いかに自由な契約であっても、それが社会の基本的な規範や道徳に反する場合には、法的効力を認めないとするのが本条の本質である。
本条の「公の秩序」とは、国家や社会の一般的な秩序、すなわち公共の安全、平和、社会制度の根幹を指す。一方、「善良の風俗」とは、社会の一般的な道徳的観念や社会通念、すなわち倫理的な規範を意味する。両者はしばしば「公序良俗」と総称され、法律行為の内容がこれに反する場合、その法律行為は無効、すなわち初めから法的効力を生じなかったものとみなされる(民法第119条参照)。
この規定の重要性は、私人間の契約自由を尊重しつつも、それが社会全体の利益や倫理と衝突する場合には、後者を優先させる点にある。換言すれば、本条は「自由の限界」を画する役割を果たしている。
## 二、趣旨——社会的妥当性の確保
本条の趣旨は、法律行為が社会的に妥当であることを確保することにある。すなわち、たとえ当事者間で合意が成立していたとしても、その内容が社会の基本的な秩序や道徳に反する場合には、法が介入してその効力を否定する。
この考え方は、近代民法の基盤である「私的自治の原則」に対する重要な制約として位置づけられる。私的自治の原則は、個人が自己の意思に基づいて自由に法律関係を形成することを認めるが、その自由は無制限ではない。社会共同体の一員として、個人の行為は社会全体の利益や倫理と調和する必要がある。本条は、この調和を担保するための「安全弁」として機能する。
また、本条の判断は個別具体的に行われる。ある行為が公序良俗に反するか否かは、その行為の内容、目的、当事者の関係、社会的状況、時代背景など、様々な要素を総合的に考慮して判断される。したがって、本条は抽象的な規定でありながら、具体的な事案に応じて柔軟に適用される点に特徴がある。
## 三、公序良俗違反の具体例——過去の判例に基づく類型
過去の判例の傾向によれば、公序良俗違反とされた行為は、以下のように分類されることが多い。
### 1. 人倫に反する行為
これには、例えば既婚者との婚約が含まれる。既婚者であることを知りながら婚約を結ぶ行為は、婚姻制度の根幹を揺るがすものとして公序良俗に反すると判断される。同様に、親族間での婚姻や、著しく倫理に反する性的関係を前提とする契約なども、この類型に該当する可能性が高い。
### 2. 正義の観念に反する行為
最も典型的な例は賭博行為である。賭博は、偶然の結果によって財産を得ようとする行為であり、勤労や公正な取引の原則に反する。したがって、賭博を目的とする契約は公序良俗に反し無効とされる。ただし、公営ギャンブル(競馬、競輪、宝くじなど)は法律で例外として認められている。
### 3. 個人の自由を極度に制限する行為
過去には、芸娼妓契約(娼妓として働くことを強制する契約)がこの類型に該当するとされた。これは、個人の意思を無視して長期間にわたり労働を強制するものであり、人身売買に近い性質を持つ。現代では、奴隷的な労働契約や、著しく長期にわたる拘束契約なども、この類型で無効とされる可能性がある。
### 4. 暴利行為
暴利行為とは、経済的に弱い立場にある当事者を利用して、著しく不均衡な利益を得る行為を指す。最も典型的な例は、過度に高額な違約金や賠償額の予定である。例えば、少額の借金に対して法外な利息や違約金を設定する契約は、公序良俗に反し無効とされる。また、高利貸しや、消費者に対する不当な契約条件も、この類型に該当する。
なお、これらの類型は固定的なものではなく、時代の変化に応じて刻々と変わってきている。例えば、過去には公序良俗に反するとされた行為が、社会の変化により許容されるようになることもあるし、逆に新しい社会問題の出現により、新たな類型が生まれることもある。
## 四、用語の定義
### 法律行為とは?
法律行為とは、行為者が法律上の一定の効果を生じさせようと意図して意思表示を行い、意図したとおりの結果が生じる行為をいう。具体的には、契約(売買、賃貸借、請負など)、遺言、婚姻などがこれに該当する。法律行為の本質は、当事者の意思に基づいて法的効果が発生する点にある。
### 無効とは?
無効とは、初めから当然に効果を生じないことをいう。無効な法律行為は、当事者がその効力を争うまでもなく、最初から法的に存在しないものと扱われる。したがって、無効な契約に基づいて給付が行われた場合、受益者は不当利得としてその返還義務を負う(民法第703条以下参照)。また、無効は第三者に対しても主張することができる。
## 五、改正情報——平成29年改正民法のポイント
本条は、平成29年改正民法(2020年4月1日施行)により、文言が改正された。
**旧法:**「公の秩序又は善良の風俗に反する**事項を目的とする**法律行為は、無効とする。」
**改正法:**「公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする。」
改正のポイントは、「事項を目的とする」という文言が削除されたことである。この改正の背景には、以下の考え方がある。
従来の解釈では、公序良俗違反の判断は「法律行為の目的となる事項」に限定されるのか否かが議論されてきた。しかし、実際の判例では、法律行為の目的だけでなく、契約の締結に至る過程(例えば、強迫や詐欺の有無)、当事者の地位や関係、契約全体のバランスなど、様々な事情が考慮されてきた。したがって、「事項を目的とする」という文言は、公序良俗違反の判断基準を不必要に狭めているように解釈される可能性があった。
改正により、この文言が削除されたことで、公序良俗違反の判断は、法律行為の目的(内容)だけでなく、契約の過程やその他の全般的な事情を考慮して行われることが、より明確になった。これにより、裁判所は従来以上に柔軟かつ総合的な判断を行うことができるようになった。
## 六、契約実務における注意点
### 1. 優位な立場の契約交渉こそ注意を要する
契約実務において、本条が問題となるケースはそれほど多くない。通常、契約当事者が対等な立場で交渉し、合理的な内容を合意している場合には、本条が原因で契約が無効となることは稀である。
しかし、契約交渉において優位な立場にある当事者は、注意を要する。なぜなら、優位な立場にある当事者は、どうしても一方的に有利な契約内容を要求しがちだからである。例えば、大企業が中小企業に対して、著しく不均衡な契約条件を押し付ける場合や、貸主が借主に対して、不当に厳しい条件を課す場合などが該当する。
このような場合、契約内容が暴利行為に該当する可能性があり、本条に基づいて無効とされるリスクがある。したがって、優位な立場にある当事者は、契約書を作成する際に、内容が過度に一方的にならないよう注意する必要がある。
### 2. 賠償額の予定・違約金に特に注意
特に事業上の契約においては、上記の暴利行為の類型に該当する可能性がある契約内容が設定されることが多い。最も注意すべきは、損害賠償責任に関する規定である。
具体的には、過度に高額な賠償額の予定(民法第420条第1項)や違約金(同条第3項)を設定した場合、本条違反となり無効となる可能性がある。例えば、契約金額の数倍に相当する違約金や、現実の損害とは著しく乖離した賠償額の予定は、公序良俗に反すると判断されるリスクが高い。
したがって、賠償額の予定や違約金を設定する場合には、以下の点に留意すべきである。
- 違約金の額は、現実に生じる可能性がある損害の範囲内に抑えること
- 契約金額とのバランスを考慮すること
- 業界の慣行や一般的な取引条件を参考にすること
### 3. 他の法律の違反で無効となるケース
本条が直接適用されないまでも、本条と同様の趣旨を持つ法律により、契約内容が無効となったり、損害賠償の対象となったりすることもある。
- **独占禁止法**:企業間取引において、優越的地位の濫用や不当な取引制限などが該当する。例えば、大企業が取引先に対して、一方的に不利な条件を強いる場合や、複数の企業が価格カルテルを結ぶ場合などは、独占禁止法違反となり、当該契約は無効とされる可能性が高い。
- **下請法**:親事業者と下請事業者との間の取引を規制する法律であり、不当な代金の減額、やり直しの強制、物品の購入強制などを禁止している。これに違反する契約条項は無効とされる。
- **消費者契約法**:事業者と消費者との間の契約について、消費者の利益を一方的に害する条項(例えば、事業者の損害賠償責任を免除する条項や、消費者に不利益な解除権の制限など)を無効とする。
- **特定商取引法**:訪問販売、通信販売、電話勧誘販売など、特定の取引類型における消費者の保護を目的として、契約のクーリングオフや書面交付義務などを規定している。
したがって、実際に契約書を作成する際には、本条だけでなく、より個別具体的な法律を念頭に置きながら、慎重に内容を検討する必要がある。
### 4. 特に注意すべき契約書の種類
実務上、本条の観点から特に注意すべき契約書としては、以下のものが挙げられる。
**事業者間の契約書**
- 業務委託契約書、請負契約書、売買契約書など。特に、独占禁止法や下請法の対象となる取引については、優越的地位の濫用に該当しないよう注意する必要がある。
**事業者と消費者との契約書**
- 割賦販売契約書、ローン契約書、会員契約書、通信販売の利用規約など。消費者契約法や特定商取引法の規定に適合しているか、また条項が消費者に不当に不利益でないか、慎重に確認する必要がある。
特に、消費者との契約においては、消費者が契約内容を十分に理解できない可能性があるため、条項を平易な言葉で記載し、重要な事項を強調表示するなどの配慮が求められる。
## 七、まとめ——公序良俗規定の現代的意義
民法第90条は、一見すると抽象的な規定でありながら、実務において重要な役割を果たしている。本条の核心は、社会の基本的な倫理と秩序を守るために、私的自治の原則に制限を加える点にある。
現代社会においては、契約の自由が広く認められている一方で、経済的格差の拡大や、情報の非対称性などにより、弱い立場にある当事者が不当な契約を強いられるリスクが高まっている。本条は、このような不公正を是正するための重要な手段として機能する。
また、平成29年改正により、公序良俗違反の判断が一層柔軟かつ総合的になったことから、今後は本条の適用範囲がさらに拡大する可能性がある。特に、新しい技術やビジネスモデルの出現に伴い、従来想定されていなかった類型の公序良俗違反が生じることも考えられる。
したがって、契約実務に携わる者としては、本条の趣旨を十分に理解し、常に社会的な妥当性を意識しながら契約書を作成することが求められる。特に、優位な立場にある当事者は、自らの利益のみを追求するのではなく、取引の公正さと社会全体の倫理を考慮した契約内容とすることが、長期的な信頼関係の構築につながることを認識すべきである。